こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「普通教育」観の戦後史―「義務教育で英語を教える」という「常識」の成立を事例として

標記のタイトルで教育社会学会(9/23-5、於:お茶の水大学)の予稿集原稿を書いていましたが、計画性もなくダラダラ書いていたらかなり超過してしまったので、だいぶ削る羽目になりました。せっかくなので、元ネタをここに晒します。ご意見・ご叱責などあればぜひよろしくお願い致します。

1. 突如高まった「平等」への意識

 英語教育関係者にとって、戦後の重要なできごとに、「週3反対運動」と呼ばれるものがある。これは、1980年前後に英語教育界を中心に巻き起こった反対運動で、1977年の中学校学習指導要領改訂にともない、公立中学校の英語授業時数が週あたり実質4時間から3時間に削減されたことに端を発したものである。この運動は、英語教育関係者だけでなく、父母や地域の人々、はては当の中学生さえをも巻き込み展開されたという意味で、大衆運動の様相を呈した。


 この運動は、「教育の機会均等」の護持を目指した運動でもあった。反対運動に携わる人々にとって、公立中の授業時数削減は、私立中との教育格差を意味し、また、塾に通えない生徒たちにとっては通塾生との格差を、農村の人々にとっては都会との格差をも意味した。つまり、週4時間の授業を3時間にすることは、「平等な(英語)教育」に対する重大な挑戦と受けとめられたのである(cf. 若林俊輔・隈部直光編著『亡国への学校英語―いま、この国民的課題を、中学生をもつ父母とともに考える』(英潮社新社、1982))。


ここで興味深いのは、戦後の英語教育を歴史的に見た時、「(英語)教育の平等」という考え方がかなり唐突に現れてきたように見える点である。というのも、この20数年前の1950年代には、学校や地域によって英語の授業時数に差があるのは、英語教育関係者自身にも当然視されていたからであり、また、このような学習条件の差異が「教育の機会均等」を侵害するものとは見なされていなかったからである(cf. 相澤真一「戦後教育における学習可能性留保の構図」『教育社会学研究』76)。しかし、この20数年後には、一転して、たった1時間の授業時数の差が、深刻な不平等と受け取られるほどに、英語科は「普通教育」を構成する必須の科目と見なされるようになったのである。この短期間の大転換を可能にした条件は何か。これが本研究の問題設定である。


戦後の英語科(正確には「外国語科」だが、実質はほとんど「英語」が教育されていたので以後「英語科」と表記する)を対象とする教育社会学的意義は次のようなものである。英語科は、旧学制および新学制発足時には「国民教育」にとって周辺的な科目として位置づけられていたにも関わらず、20年強というかなり短い間に「主要」な教科への成長をとげた。「普通教育」としての「正当性」がこれほど短期間に成立した教科は他に例がなく、英語科教育を対象とすることで、普通教育/義務教育/国民教育に対する認識の変容を、「凝縮」した形で分析することが可能である。「凝縮」しているということは、介在する変数を限定化できるということであり、より示唆の多い分析が期待できるのである。


これらの変数として、進学率上昇や受験競争の激化など様々なものが指摘できるが、本研究では、その前提条件である、「普通教育としての英語科」という英語教育界の「正当化」議論に焦点をあてる。これは、1960 年代までにおよその完成を見ており、その時期までの英語教育関係者による文献を可能な限り渉猟し、その具体的内実を検討したい。

2. 新学制以前 ―岡倉由三郎著『英語教育』


 まず、新学制以前における英語科の位置づけを確認しておきたい。戦前・旧学制では英語科は中等教育機関の一部の生徒だけを対象にしていた。江利川春雄の試算によれば、1926年で中等教育生徒に占める英語履修者の割合は32%(旧制中学校および高等女学校の生徒に限定した場合、18%)、1942年では31%(同、14%)となっている(江利川春雄『近代日本の英語科教育史』、東信堂、2006、p.333)。英語は必ずしも旧制中学・高女というエリートコースの「専売特許」ではなかったが、当時の人口から見るとまだ少数派であった。


このように、制度上「国民教育」から排除されていた英語科は、それだけでなく、理念上もその埒外にあることが当然視されていた。この「排除」の論理を理論化したもののひとつに、岡倉由三郎著『英語教育』(1911、博文館)という、当時からきわめて大きい影響力を持っていた古典的文献がある。ここでは、旧制小学校での英語教育の是非について述べられている部分に注目したい。同書で岡倉は、次のような理由を述べ、小学校での英語教育の必要性を否定する。

普通教育の目的は、国民として立つに必要なる知識技能を授けるのであることは、今更言ふ迄も無いが、其立場から見れば、修身、国語、算術、歴史等が最も必要なので、是等の主要学科すら、尚目的通り完全にいって居らぬ様にも思はれる。…然るに英語科の如き、目下の様から見て比較的不急なものを加へ、時間と労力とを之に割くは、甚だ愚なことで、却って是が為に、国民教育の主要方面が、薄弱に陥いる処がある。


もちろんこれはあくまで小学校での英語教育への反対の弁だが、学習者の年齢のような発達的な根拠ではなく、英語科の教科内容の特性を根拠にしているところに注目したい。つまり、英語科で与えられる知識技能は、「国民として立つに必要なる知識技能」ではないというわけである。


 ただし、ここで注意すべき点は、この岡倉の「必要性」は、単に日々の生活で英語を読んだり話したりする必要があるかどうか、つまり実際の運用能力の必要性だけを問題にしていたわけではなかった点である。岡倉は、現代の英語教育においても頻繁に言及される「英語教育の教養的価値」なる概念を理論化した人物であり、ここでの「必要性」に関する記述もその点を念頭に置いて解釈する必要がある。岡倉のいうところの「教養」とは、英語(とりわけ英文学)を読むことを通じて「人格修養」を目指すことであった(山口誠『英語講座の誕生』(講談社メチエ、2001))。すなわち、岡倉の意図としては、こうした「人格修養」ですら「普通教育」の範疇外である、ということになる。なお、新学制になると、この「教養」概念は戦後教育の理念と接触することで大きく変容し、「普通教育としての英語科」の根拠となっていく。この点は後述する。

3. 新学制:「民主教育」と「義務教育」のジレンマ


前述のとおり、新学制になり、新制中学、つまり義務教育段階で英語が教えられはじめ、学習者人口は一挙に増大した。ただ、当初、英語科は「選択科目」扱いで、最初から「全国民」が履修していたわけではなく、かなりの個人差があった*1。この個人差の背後には、家庭の経済状況等に起因する高校への進学の有無、および地域的な要因(都市と田舎の差)があったが、こうした社会階層差・地域差は、必ずしも「平準化すべきもの」とは見なされておらず、むしろ個人・地域社会の要求を反映した「民主的」なものとして肯定的な評価すらなされていた。1951年の「学習指導要領英語編(試案)」では、この観点が端的にあらわれている。

現代の教育は,個人の必要がそれぞれ異なり,地域社会の必要がそれぞれ違うという考え方に基いている。英語に対する必要は,非常にかけ離れた特異な場所である北海道と,岐阜・長野などの山岳地方とでは大いに異なるわけである。英語に対する必要は,首都である東京,横浜・神戸のような貿易都市と,孤立した町村とではそれぞれ違うのである。ここにおいて,地域社会の必要や生徒の個人的必要に対して学習指導要領を適応させていかなければならない。


しかしながら、、英語教育関係者にとって「戦後」は、このように学習者が増大・多様化したという以上の意味があった。なぜなら、戦後の「民主的理念」に則った新しい英語教育を構築しなければならなかったからである。この「民主教育」の理念が、「国家のためではない、生徒や地域社会のための教育」を意味する以上、生徒や社会のニーズを無視して英語を教えることは許されないが、これが大きな難題となる。つまり、当時はまだ相当数の生徒や地域の人々がそもそも日常生活で英語に対するニーズを持っておらず、この事実とどう折り合いをつけるかという難問だった。英語科の教育内容は、国語科や社会科など他教科に比べ、「生活」への浸透度が極端に小さく、「社会の要求」や「生活」を強調し過ぎると、英語科自体の存在意義を堀り崩してしまうというジレンマがあった。


 このジレンマを解決する上で重要な役割を果たしたのが、前述した英語科特有の「教養」概念であり、そして、同じく英語科特有の概念である「言語の本質/語学の本質」論である。

3.1. 残余概念/人間育成としての「教養」

「社会の要求」を重視する以上、「英語の運用能力」育成には回収されず、将来の「生活」で英語を使う必要がない生徒たちの「ニーズ」とも衝突しない理念が必要だった。そこで、利用されたのが、当時すでに英語教育関係者にとっては有名な目的論だった「教養主義」だった。ただし、前述のとおり、旧学制における「教養」は、英文学の「読書力」を身につけた上で人格修養を目指すというかなり高次の目標であり、このままでは、新制中学には接続不可能な概念だった。ここで、この教養の「発達過程」の部分を捨象し、「結果」だけに注目して読み替えられたことで、新制中学にも適用可能となったのである。つまり、「教養」の「運用能力の残余概念」という性質を前面に出すことで、ジレンマが解消されたのである。これらは当時の技術主義への反感と相まって、より説得力を伴った言説となった。こうして、前述の岡倉「教養」論に見られる「高度な語学力を通じて」という「過程」の文脈は消え、初歩段階の中学生にも開かれた理念となった。いわば「教養の下方拡張」である。


さらに、「教養」概念は、「残余概念」として消極的に英語科の意義を正当化しただけではなく、「社会の要求」論を読み替えることで、積極的な意義すら見いだした。つまり、「社会の要求」に応えるためにこそ、「英語の運用能力」よりも、むしろ「教養」面を重視すべきだという議論である。ただし、「社会の要求」を「現にいま『社会』が望んでいること」という、当時の支配的な意味でとれば、ジレンマを引き起こすため、抽象的に読み替えられている。つまり、「そんなものは不要だ」と「社会」から異論が出ない程度にまで抽象化されたもので、「人格修養」のような「教養」的理念はこれに適していた。

3.2. 言語の本質/語学の本質

英語教育をめぐる「本質」概念も、当時の深刻な地域差を不問に付し、中央を中心に編まれた「英語科教育」という「知識」を、地方・農村・へき地にいたるまで、あまねく浸透させることに貢献した。ここで注目すべきは、戦後の英語教育論議に頻繁に登場する「言語の本質」「語学の本質」という言葉である。いずれも英語の音声指導を強調するために用いられたもので、前者は、言語の「非本質」領域とされる「書き言葉」偏重を戒めるために、後者は、「邪道」な外国語学習とされた「受験英語」などの批判を意図している。この「本質」概念が、地域差を理念レベルで消失する役割を果たしたのである。すなわち、都市と地方は、地域社会の実情が大きく異なるものの、それは表層的な差でしかなく、「言語/語学の本質」に則った「普遍的」な教育が行われるべきである点は変わらないと「正当化」されたのである。




 以上に見たような「読み替え」は1950年代から60年代初めにかけて一応の完成を見たと言える。このような英語教育界特有の「正当化」が、そのおよそ20年後の「義務教育で英語を教えるという常識」の成立の前提条件になったと考えられる。

*1:また、「選択教科」であることの帰結として、当初は高校入学時の学力検査の科目にも加えられていなかった。試験を実施した都道府県がはじめて現れたのが1952年、46都道府県すべてで導入されたのが1961年である(江利川春雄『受験英語と日本人』、研究社、2011)。