こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

なんで英語やるの?チェンジ

大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの本。


なんで英語やるの? (文春文庫 な 3-1)

なんで英語やるの? (文春文庫 な 3-1)

「先生よ、おれたち、一体なんで英語やんなきゃなんねえんだ?答えてくれってね」
「ふ―ん」
私は暫く考えこんでからきいた。
「それで、あなたは何て答えたの?」
「そいつはいい質問だ。俺にもわかんねえから一緒に考える」
「考えたの?」
「考えましたね。日夜、むきになって考えました。今もまだ考えてるんですがね。彼らは何しろ、大多数が受験とあまり関係ないんです。高校そのものに既に種類があってね、A市内の高校のいわゆる殆どの受験校は、英語Bをやるんです。分枚は英語Aなんだ。それでAをやってる生徒は、たまたま大学受験したくとも、別に勉強しなければならないって事ですよ。とにかく、俺んとこの学校は受験校じゃないらしい。そこで、一体何のために、英語をやるか?と生徒は考え、俺も考えるんだなあ。下着のS、M、Lの記号がわかるために、ってのはお粗末だしね」
「ふ―ん」
「俺自身、何でおれたち、いや、この俺は英語を教えているのかって考えるんだ。この問何かの会で他の英語の先生にきいてみたんだよ、どう考えますかってね。そしたら大笑いされちまってね」
「何と言ったの、その人」
「いや、何のために教えてるかなんて考えた事もないですよ、あははは、とさ」
(pp. 308-9)

「しかし、むしろ、都会を外れたその学校で、かえってやりたい事やれるわけてしょうよ。クビ切られない程度にやったらいいわよ」
「しかし、大体俺たち、何で英語をやるの?そいつが知りたいんですよ」
「利用するためさ。私のは、はっきりしているわ。飯のタネに利用して来たんだから」
「じゃ、俺も飯のタネって事かな。いや、それじゃあないね。飯の種だったら他の仕事だってある。それはあなたにだって言えますよ」
「ふん、そうだね、そう言えば」
「日本の近代化のため、工業化のため、最大限に英語をとり入れて利用して来た事はみとめるけどね。現在少々飽和状態にあるんだろう?将来、日本と英語の関係はどうなるんだろうか?」
「とり入れて利用して来た事は、まあ、そうだけど、そのとりいれた英語が出て行く、とか消滅するって事はないてしょう。世界の共通語としての英語がなくなって日本語がとってかわる事でもおきなければね、或は、日本式英語が世界に幅をきかせたりしてさ」
「いや、日本式英語ってのは人間の言語の形態や条件に大分かけてるところがあるから、そうはならないと思いますよ」
「そんなにひどいかねえ。私は、どうもあなたたちがうけた英語教育ってのは、よくわからない点があるのよ、まだ」
「そうらしいですね、先生にはあんまりわかっちゃいない事はたしかだ」
竹森君は手きびしい文句をのこして、又山の中へもとって行った。


私は、むかっ腹をたてながら、一体、何で日本人は英語をやるのか?と考えた。あたるを幸い、なぎ倒し、と言う勢いで、やって来る人間みんなをつかまえて、
「あなた、何故、日本人は英語をやるのかしら?どう思う?」
ときいた。それでも足りずに、あちこちの地にちらばるOBに電話したり、手紙をかいたりした。執念深いのである。返事は一様に、
「えっ!?」
と言う第一声にはじまり、
「そりゃ、受験科目にあるからでしょう」
とか、「中学でやんなきゃならないんでしょう?だからよ、きっと」とか、「英語知ってないと何も出来ないんですからね」とか、「野球だってわからなくなっちまいますよ」とかで終る。
(pp. 311-2)


これのおもしろい(というのも失礼だが)のは、この本は、けっきょく最後まで「先生、おれたち、なんで英語やるの?」に対する答えが出てこないことだ。


もちろん、「私が英語を学ぶ理由」、つまり「個人的な目的」は、答えるのは簡単だ。「飯の種」とか「趣味」とか「気分転換」とか、各々めいめいの目的を言えばいいだけ。


しかし、上記の生徒たちの問いかけ(というか「恨み節」?)は、「やる必要もない自分たちまで巻き込んで、どうして全員が英語をやるの?」という問いと理解するべきだろう。「英語をやらせる」というある種の強制性が伴う以上、答えには公共性が必要である。なので、答えのハードルは、上記の「個人的な目的」とは、比べものにならないほど高い。


ちなみに、「なんで英語をやらせるの?」という問いに対し、「なんで私は英語をやるのか」という個人的な話にすり替えてしまうのを「なんで英語やるのチェンジ」とよびたい。(ご自由にお使い下さい)