こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

授業からのドロップアウトと「想像の共同体」 (Norton 2001)


Norton, B. (2001) Non-participation, imagined communities and the language classroom. In M. Breen (ed.) Learner Contributions to Language Learning: New Directions in Research (pp. 159Á171). Harlow: Pearson Education.

→PDF(著者のウェブサイトからダウンロードできます)


語学授業(いわゆるESLクラス)をドロップアウトしてしまう学習者に注目し、その心理面(とりわけアイデンティティ)においてどのような作用が働いていたかを考察した論文。インタビューデータに基づいているが、一次データというよりは、過去に使用したものを利用しているので、「構想を提示した」系論文の感が強い。

Imagined Communities ≠「想像の共同体」

この論文を手に取った最大の理由が、Imagined Communities というタイトルである。Imagined Communities といえば、歴史学政治学社会学その他人文社会科学の様々な分野で幅広く読まれているナショナリズム論の超基礎文献、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をふつうは思い浮かべるはず。ただし、応用言語学や英語教育研究で、アンダーソンが引かれることはおそらくめったにないと思うので、どういう感じで料理されているんだろうかという興味で手に取ったわけである――ただし、あまり引用されないとは言っても応用言語学にとってまったく無関係とは思わない、アンダーソンは、ナショナリズムを生み出す中心的な要因として共通語(出版言語)を詳細に検討しているからだ。


結論から言うと、著者Nortonの Imagined Communities 概念は、アンダーソンの「想像共同体」とは、そもそも別概念のようだ。この論文の Imagined Communities は、ごくおおざっぱに言えば、学習者のアイデンティティ形成に影響を与える、彼・彼女が所属している/所属していたとイメージする特定の「グループ/共同体」のことを指す。そして、この「イメージ上の共同体」が、語学クラスのドロップアウトの遠因として働く場合があると論じている。


この時点で、ナショナリズム的な話は一切なく、また、そもそもアンダーソン本を引いていない。そういうわけで、「想像の共同体」とはとりあえず無関係と考えてよい(なんて断言していいのか?笑。もし異論がおありの方はご教示下さい)。


ただし、以下のウィキペディアのページには、ばっちりと「アンダーソンの用語に基づいて・・・」(「概念に基づいて」ではないことに注意!)と ---誰が編集したかは知らないけれど--- 書いてある。

著者がアンダーソンの議論を知らないはずはないだろうから、あえて言及を避けて、その文脈で解釈されないように工夫したのだろうか?(一般的には、誤解されそうな用語をあらかじめ出して、「これとは違うんです!」と強調したほうが、安全だと思うんだが)

想像の共同体?共同体のイメージ?

そんなわけで、この論文の Imagined Communities を日本語に訳すとすれば ---「余計なお世話」感が満載だが---、「想像の共同体」としてしまうとかなりミスリーディングである。いや、ミスリーディングという以上に、「想像の」という形容詞は適切ですらないだろう。学習者が所属したことのある/所属している「リアルな共同体」を前提に、そのイメージが重要なんだ、という話だからだ。つまり、著者の意図する「共同体」は、けっして「想像の」産物ではない。


そんなわけで訳すとしたら「イメージ化された共同体」、もっと意訳してしまえば、「共同体イメージ」くらいがいいような気がする。


Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism

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