「英語(の)社会学」というものが、それほど浸透しているわけではないが、たまに耳にする。どういうものかといわれると難しいんだが、とりあえず、「英語に関する諸現象に関する社会学」くらいで問題ないだろう。「社会学ってなんだよ!」という人もいるかもしれないが(僕もそのひとり)、「英語と社会の関わりを、経済の問題や心の問題に限定せず、広く論じる」くらいで良いのではないだろうか。
ちなみに、これ関係でおそらく日本でもっとも有名な方が、中村敬氏。
- 作者: 中村敬
- 出版社/メーカー: 三元社
- 発売日: 2004/07/01
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僕自身は自称したことはないが、たまに「てらさわさんのやっていることは英語社会学だよね」と言われることがある。僕は、所属こそ社会学系だったことはないが、社会学の学会に入っているし、社会学系の講義・ゼミには頻繁に顔をだしていたので、そう呼ばれても心外ではない。ただ、自意識としては、「英語社会学」をやっているというよりは、教育社会学(sociology of education)あるいは広義の社会言語学(sociolinguistics)をやっているという感覚があったが。
そういった事情から、今までに英語社会学・英語教育社会学、あるいはそう明言していなくても、英語や英語教育に関する社会学的分析とうたったものに数多くアクセスしてきたつもりである(ただし、日本社会に関するものが中心)。
ただ、口頭発表を聞き、あるいは論文を読み、驚くことがしばしばあった。それは、「英語(の)社会学」とうたっているにもかかわらず、社会学の文献がほとんど引かれていない場合がよくあったからである。
社会学のもつ「問題意識駆動型」という特性
ひょっとすると上の「驚き」に多少の批判のニュアンスを感じるかもしれないが、それなりの事情があってそれもわかるので一概に非難というわけではない。社会学は、おおざっぱにいって、特定の現象に対する問題意識を中心に組み立てていくようなアプローチも普通に許容されているからである。
たとえば、「英語(の)経済学」と名乗る研究があったとして、これが経済学の文献(つまり、経済学的な理論・モデルが書いてある本)を引かないことはまず想像できない。もしそんなものがあったら、「英語経済学」とは名乗らせてもらえないだろう。「Xとお金の話」をすれば何でも「X経済学」になるわけではないのだ。同様のことは、「英語教育(の)心理学」とか「英語(の)教育哲学」とかにも言えるだろう。
一方で、英語(の)社会学の研究のビブリオに、社会学の著作がほとんどなくても、それだけで「社会学失格だ」ということにはならないだろう。なぜなら社会学には「これがなければ社会学じゃない!」というものが、経済学や心理学に比べてはるかに共有されていないからだ。
だから、社会学的に分析する場合、「既存の社会学」から天下り式に問題関心を下ろしてくる必要はない。何らかの英語をめぐる社会現象・社会問題に焦点を当てて、それを丁寧に検討すること、つまり、たとえばその問題に関する文献を片っ端から読んだり、アンケートを配ったり、関係者にインタビューしたり、あるいは、ひたすら思索にふけったりするという、問題意識先行・ボトムアップ型のアプローチも英語社会学の一側面と言えるだろう。