こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

授業参観を「言語政策研究」と呼ぶのはやめてほしい


夏の学会シーズンが始まる前に(特定の人を批判していると思われないために)一般論として言っておきたいこと。

それは、外国語教育系の学会で「言語政策」「外国語教育政策」とラベルを付けられている研究に関してである。


外国の英語教室を授業参観したのをビデオで流したり、担当者にちょこっとだけインタビューしたのをそのまま掲載することを「言語政策研究」などと呼ぶ慣習があるが、こうした悪しき伝統は一日でも早く消滅してほしい。


言語政策研究の教科書・研究書を読めば、こんな作法の「言語政策研究」など載っていないはずだ。言語政策研究は普通、特定の地域の言語政策がいかに生まれているかとか(いわば歴史学的問い)、どのように制定・運用されているか(政治学的問い)、各アクターにどのように受容されているか(人類学的・質的研究的問い)、どのような機能を持っているか(社会学的問い)といった問いが論じられるものである。「外国の特定の教室ではどんな授業をやっているか?どんなカリキュラムを運用しているか?」といった問いはよほど絶妙な問題設定をしていない限り、学問的な問いとは見なされないと思う。


もうひとつ非常に大きな違和感を覚える点。授業参観型研究をやっている研究者のほとんどが大学教員であり、院生がほとんどいない点である。これは、研究費で外国に気軽に授業参観に行けるのが大学教員だけだからということだろう。院生ならば、学位取得がかかっているわけで、フラッと行ってちょっと授業参観をして帰ってくるような「デザイン」の研究などはおいそれとできるはずがない(まともな指導教員なら全力で止めるだろう)。


こうした皮肉なメカニズムのためか、日本国内の言語政策研究では、平均的にみれば、大学教員よりも院生の研究の質が高いと感じる。この点、若手は近年(に始まったことではないが)どんどん失望を繰り返しているので、年長世代にはもっとちゃんとしてほしいと思う。せめて教科書の一冊や二冊は読んでほしい。


研究費を持っている大学教員にしかアクセスできないものが言語政策研究だと思われてしまうことはたいへん不幸なことだ。こうした誤解を防ぐためにも、授業参観は「授業参観」と呼ぶべきであって言語政策研究と呼ぶのはやめてほしい。