こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

言語政策における量的研究 (1): 量的研究と質的研究の最大にして唯一の違い

とある地域でとある施策を行ったので、利用者の満足度が知りたい。

このとき、満足度調査に協力してくれる利用者が3人しかいなかった場合、「満足度は星何個ですか?」などと抽象的な指標で問う必要はない。具体的に、どう満足あるいは不満だったか、どの点は満足(不満)で、それはどういう理由なのかを深掘りすればよい。

この調査結果を、他の人――たとえば上司や議員や市民――に見せるためにレポートを作成することになったとしよう。この場合、利用者の声は、可能な限りそのまま載せたほうがよいという判断になるはずだ。もちろん、そのままと言っても、満足度とは無関係な世間話や脱線話まで一字一句正確に愚直に再現する必要はなく、むしろ読みやすさを重視するならバッサリ削除すべきである。また、プライバシーへの配慮の点からも、実際の発話をかなりの程度刈り込む必要がある。。少なくとも、3人の声を数値に置き換えたりして変に加工するのは、無駄であるばかりか、リアルな声の歪曲とさえ言えるだろう。

この調査協力者が5-6人だったらどうだろうか。まだ、「リアルな声」重視に分がありそうだ。では、15人だったら。うーん、それでもまだ生の声を聞きたい気がする......。では、30人だったら。100人だったら。1,000人だったら......。


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この話は、(言語)政策研究における質的研究と量的研究の重要な分岐点を示している。現実(例、リアルな声)を描写するうえで、言葉――正確には、言葉の意味――を拠り所にする質的研究と、何らかの加工作業によって得られた数値(例、満足度スコア)を拠り所にする量的研究である。

言い換えるなら、現実を、質的研究は意味ベースで要約し、量的研究は数値的に要約しているのである。

以上の特徴づけが、量的研究と質的研究を分かつもっとも本質的かつ無難なポイントだと思う。

しばしば、量的研究の特徴は、結果を一般化できることだと言われるが、実は正しくない。一般化可能性を担保してくれるのは、サンプリング等の別の原理であり、数値に置き換えただけで一般化につながるわけではない(逆に、質的研究でも、きわめて特殊な場面ではあるが一般化可能な推論は可能である)。

また、質的研究の特徴は、現実をありのままに記述することであるとも言われるが、これも正しくない。私たちの眼前にある現実は途方もなく複雑かつ豊かな情報を備えているが、それを論文や報告書や学会発表スピーチの文字列に置き換えた時点で、大半の情報は捨てられてしまっている。それは、量的(数値的)に要約しようが質的(意味的)に要約しようが同じことである。私たちは現実をありのままに記述することなどできず、特定の方法で切り取ることができるのみである(そもそも「当事者のリアルな声を明らかにしました!」と研究者が言ってしまうのは、ちょっと立ち止まって考えてみると、結構おこがましい話ではないだろうか)。

量的研究を考えるうえで、以上の区別を出発点にすると見通しが良くなると思う。つまり、量的研究の特徴を数値的に要約することそれ以上でも以下でもないと認識したうえで、数値的要約とイコールではないが関連は大きい重要概念――たとえば、一般化、大量観察、因果推論、多変数間の連関――を理解することが重要であると考える。


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