こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

日本の英語教科書から見る「国際英語とナショナリズム」


Hino, Nobuyuki. 1988. Nationalism and English as an international language: the history of English textbooks in Japan. World Englishes, 7 (3), 309-314.


日本の英語教科書を素材にして、「国際英語」とナショナリズムの結びつきの変遷を記述した論文。教科書の記述に従って、明治期から現在までの時代が5つの期間にわけられています。内訳は以下のとおり:

【第1期】 明治維新日中戦争
英語は近代化の言語であり、ネイティブスピーカーの基準に従うのは当然で、英語教科書の素材は英米文化をふんだんに含む
【第2期】 日中戦争
英語教科書日本的な素材が増える
【第3期】 太平洋戦争
英語教科書はほぼすべて日本の事物を英語にしたもの
【第4期】 終戦・本土占領期〜東京オリンピック
再び、英米の文化を伝える素材が増える
【第5期】 東京オリンピック〜現在
徐々に英米以外の素材(日本および英米以外の世界の国々)が増える

「ネイティブスピーカー狂信主義」への「抵抗」としてのナショナリズム

「ネイティブはこうするんだから、これが正しい」というように母語話者の基準・規範を教条化すること(著者は、「ネイティブスピーカー狂信主義」 ---"chauvinism of native speakers"--- と呼んでいます)は以前はよく見られましたが、近年では、徐々に「行き過ぎだ」と感じられることが多くなってきたように思います。実際にネイティブスピーカーでない人たちが英語を使って、日々の営み(仕事、日常生活、趣味、勉強等々)を問題なく遂行している事実が現実にあり、そうした非母語話者の英語使用の積み重ねが、「ネイティブの基準に従わなくてもよい」という価値観を浸透させています。これが「国際英語」と呼ばれる ---などと大げさな用語を使わなくても多くの人が納得するほど人口に膾炙した--- 考え方です。


「国際英語」あるいは「ネイティブがどう言ってるかなんて知らんがな」論のようにネイティブ規範を相対化する発想は、最近の現象と思う方もいるかもしれませんが、実際のところ、日本では戦前からあります。というより、正確には、日中戦争・太平洋戦争を契機にして盛り上がったといったほうがいいでしょう。戦時中、英語は「敵性語」「敵国語」であり、英米人の基準に手放しで従うことは理念的に無理でした。さらに、戦前の日本は日本語話者だけで構成される(とイメージされた)国家ではもはやなく、「大日本帝国」という多言語国家であり、また「大東亜共栄圏」という多言語環境を前提にした言語政策に迫られていたので、英語は多言語環境(特に東南アジア)での意思疎通を果たす国際語としての役割を一部では期待されていました。


こう見てくると、国際英語論は一般的に非ネイティブスピーカーを「解放」する思想だと思われる場合が多いんですが、ナショナリズム国粋主義という別の難題を呼び込んでしまうというジレンマがあると言えるでしょう。同論文はこのジレンマを日本の教科書史に基づいて鮮やかに例示して見せたと言えます。


その一方で、そのジレンマの解決策は明確には提示していません。これは無理もないことで、そもそも、あっさりと妥協点を見いだして容易に解決できるような問題でないからこそ「ジレンマ」だからです。超難問だと言えるでしょう。


余談ですが、よくナショナリズムを「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」に区別して、後者だけを排せばいいというような主張があります。たとえばペトリオティズム・郷土愛の議論など。しかし、これは単にレトリックで区別して納得しただけの議論であり、まともに相手にするものでもないでしょう。たとえそういう区別を採用したとしても「じゃあ、どうやって良いナショナリズムと悪いナショナリズムを区別するんだ?」という新たなジレンマを抱え込むことになるだけです。